著者:宮本 百合子 読み手:福井 一恵
音楽に対しては全く素人であって、しかも音楽についてはある興味をもっているものの一人として、私は日本の将来の音楽的発達について少なからず希望を抱いております。音楽上の創造力も技術も、これから十五年の後はおどろくべき進歩があるでしょう。然し、この期待の一面には、今日の音楽のおかれている複雑な社会の事情や音楽界の伝統習慣が、既に十分その困難性や多難性をも示し語っているように見えます。
作曲家達が逢着している所謂日本的なものの再発見の問題には、進歩的な文学者がそれにぶつかって最も健全な人間的芸術的解決を見出そうと努力していると同じ努力が要求されている。今日文化の全面に亙って棲息している事大的な棒振り的理論を、作曲家たちも演奏者たちも、しっかりした音楽的教養、人間としての判断力、穢れざる趣味で選択批判してゆかなければならないでしょう。
それにつけて、音楽批評家の任務は重大と思われますが、率直なところ、私にはどうもよく従来の批評家というものの拠って立っている必然性がわからない。或る一つの音楽会をきいた聴衆として、一定の印象をうけてかえって翌日新聞などを見ると、ちょうど旧劇批評家の或るタイプを思わせるような挨拶のような言葉を評として発表されてある。素人は学ぶところがありません。演奏家、作曲家等は、どのような感想をもってああいう批評をよまれるのでしょうか。
音楽は文学よりもおくれて入っているから理論的・感性的蓄積が未だ決して豊富でない。それに音楽というもの、音の不断の刺戟というものが人間の頭脳に生理学の上からどう影響するものか、非常に研究されるべき神経学、心理学のテーマがあるとも思われます。音楽家の精神内容には、舞台に立つ者として俳優などと共通の古い伝統の感情のほかに、何か独特なものがある。プラスであると共にマイナスなもの、彼を一応音楽家たらしめているが大音楽家たらしめぬ、というような矛盾がふくまれていることを感じます。例えば作品や技法の上で新しいものを追求しようという熱心さと、その新しいものの質の探求や新しさの発生の根源を人類の生活の歴史の流れの只中から見出そうとするような思想の規模との間に、具体的な矛盾があるとも思われます。芸術至上主義ととなりあわせて極めて卑俗な楽壇世渡り、社交性が、芸術家に必要な社会性とすりかえられて並んでいます。俳優の生活は旧套の中から既に舞台芸術家として、新しい生活方法に入っている前進座のような実例がありますが、音楽家には、ここで俳優と並べて云うことさえ無礼であると感じられるような、遅れた自尊心、個人的な見解が強くのこっているのではないでしょうか。
芸術の成果と芸術家の日々の生き方の問題が切実にとりあげ直されても無駄ではないのでしょう。文学は常に、文章道の末枝へ墜落する危険を一方に目撃しつつ、一方にそれとたたかい、批判してゆく力を内部的に包含しています。音楽が風や濤声や木々の葉ずれのような自然現象ではなくて、社会生活を営む人間の声であることが深く深く理解され、身をもって経験されて、はじめて将来の音楽発展への希望の土台も与えられる訳です。
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