芥川龍之介・トロッコ 3

芥川龍之介・トロッコ 3

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三人はトロッコを押しながら緩(ゆる)い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外(ほか)の事を考えていた。  その坂を向うへ下(お)り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後(あと)、良平はトロッコに腰をかけながら、帰る事ばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」――彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴(け)って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、――そんな事に気もちを紛らせていた。  ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木(まくらぎ)に手をかけながら、無造作(むぞうさ)に彼にこう云った。 「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」 「あんまり帰りが遅くなるとわれの家(うち)でも心配するずら」  良平は一瞬間呆気(あっけ)にとられた。もうかれこれ暗くなる事、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途(みち)はその三四倍ある事、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならない事、――そう云う事が一時にわかったのである。良平は殆(ほとん)ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜(おじぎ)をすると、どんどん線路伝いに走り出した。  良平は少時(しばらく)無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐(ふところ)の菓子包みが、邪魔になる事に気がついたから、それを路側(みちばた)へ抛(ほ)り出す次手(ついで)に、板草履(いたぞうり)も其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋(たび)の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙(はる)かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路(さかみち)を駈(か)け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪(ゆが)んで来る。――それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。  竹藪の側を駈け抜けると、夕焼けのした日金山(ひがねやま)の空も、もう火照(ほて)りが消えかかっていた。良平は、愈(いよいよ)気が気でなかった。往(ゆ)きと返(かえ)りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡(ぬ)れ通ったのが気になったから、やはり必死に駈け続けたなり、羽織を路側(みちばた)へ脱いで捨てた。  蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷(すべ)ってもつまずいても走って行った。  やっと遠い夕闇(ゆうやみ)の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。  彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気(ゆげ)の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲(く)んでいる女衆(おんなしゅう)や、畑から帰って来る男衆(おとこしゅう)は、良平が喘(あえ)ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。  彼の家(うち)の門口(かどぐち)へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲(まわり)へ、一時に父や母を集まらせた。殊(こと)に母は何とか云いながら、良平の体を抱(かか)えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜(すす)り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣(わけ)を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………  良平は二十六の年、妻子(さいし)と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆(しゅふで)を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労(じんろう)に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………













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