2、字のないはがき--无字的明信片

2、字のないはがき--无字的明信片

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字のないはがき
死んだ父は筆まめな人であった。
私が女学校1年で初めて親元を離れた時も、3日にあげず手紙をよこした。当時保険会社の支店長をしていたが、一点一画もおろそかにしない大ぶりの筆で、
「向田邦子殿」
と書かれた表書きを初めて見た時は、ひどくびっくりした。父が娘あての手紙に「殿」を使うのは当然なのだが、つい四、五日前まで、
「おい、邦子」
と呼び捨てにされ、「ばかやろう!」の罵声やげんこつは日常のことであったから、突然の変わりように、こそばゆいような晴れがましいような気分になったのであろう。
文面も、折り目正しい時候の挨拶に始まり、新しい東京の社宅の間取りから、庭の植木の種類まで書いてあった。文中、私を貴女のよび、
「貴女の学力では難しい漢字もあるが、勉強になるからまめに字引を引くように。」
という訓戒も添えられていた。
ふんどし一つで家じゅうを歩き回り、大酒を飲み、癇癪を起こして母や子供たちに手を上げる父の姿はどこにもなく、威厳と愛情にあふれた非のうちどころのない父親がそこにあった。
暴君ではあったが、反面照れ性でもあった父は、他人行儀という形でしか13歳の娘に手紙が書けなかったのであろう。もしかしたら、日頃気恥ずかしくて演じられない父親を、手紙の中でやってみたのかもしれない。
手紙は1日に二通来ることもあり、一学期の別居期間にかなりの数になった。私は輪ゴムで束ね、しばらく保存していたのだが、いつとはなしにどこかへ行ってしまった。父は64歳でなくなったから、この手紙のあと、かれこれ30年付き合ったことになるが、優しい父の姿を見せるのは、この手紙の中だけである。
この手紙もなつかしいが、最も心に残るものをと言われれば、父があて名を書き、妹が「文面」を書いた、あのハガキということになろう。
終戦の年の4月、小学校1年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼く不憫だというので、両親が手放さなかったのである。ところが、3月10日の東京大空襲で家こそ焼け残ったものの命からがらのめに遭い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。
妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札をつけ、父はおびただしいはがきに几帳面な筆で自分あてのあて名を書いた。
「元気な日は丸を書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」
と言って聞かせた。妹は、まだ字が書けなかった。
あて名だけ書かれたかさ高なハガキの束をリュックサックに入れ、雑炊用のどんぶりを抱えて、妹は遠足にでも行くようにはしゃいで出かけていった。
1週間ほどで、初めてのハガキが着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大丸である。付き添っていった人の話では、地元婦人会が赤飯やぼた餅を振る舞って歓迎してくださったとかで、かぼちゃの茎まで食べていた東京に比べれば大丸に違いなかった。
ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていた。情けない黒鉛筆の小マルは、ついにバツに変わった。その頃、少し離れたところに疎開していた上の妹が、下の妹に会いに行った。
下の妹は、校舎の壁により掛かって梅干しのたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをペッと吐き出して泣いたそうな。
まもなくバツのはがきも来なくなった。3月目に母が迎えに行った時、百日咳をわずらっていた妹は、しらみだらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。
妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園のカボチャを全部収穫した。小さいのに手をつけるとしかる父も、この日は何も言わなかった。私と弟は、ひと抱えもある大物から手のひらに乗るうらなりまで、二十数個のかぼちゃを1列に客間に並べた。これぐらいしか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。
夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
「帰っていたよ」
と叫んだ。茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。痩せた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。
あれから31年。父はなくなり、妹も当時の父に近い年になった。だが、あの字のないはがきは、誰がどこにしまったのかそれともなくなったのか、私は一度も見ていない。
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