妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも呑(の)み込む能力を失ってしまった。約一時間ばかりすると先生が窓の下へ来て私の名を呼んだ。私は驚いて窓を開けた。先生は散歩しようといって、下から私を誘った。先刻(さっき)帯の間へ包(くる)んだままの時計を出して見ると、もう八時過ぎであった。私は帰ったなりまだ袴(はかま)を着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。
その晩私は先生といっしょに麦酒(ビール)を飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。
「今日は駄目(だめ)です」といって先生は苦笑した。
「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。
私の腹の中には始終先刻(さっき)の事が引(ひ)っ懸(かか)っていた。肴(さかな)の骨が咽喉(のど)に刺さった時のように、私は苦しんだ。打ち明けてみようかと考えたり、止(よ)した方が好(よ)かろうかと思い直したりする動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。
「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」
私は何の答えもし得なかった。
「実は先刻(さっき)妻(さい)と少し喧嘩(けんか)をしてね。それで下(くだ)らない神経を昂奮(こうふん)させてしまったんです」と先生がまたいった。
「どうして……」
私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」
先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。
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